「見ること」と「知ること」
一
見ることと知ることとはしばしば違う。一致すれば之より幸いなことはな
い。併し往々その間に縁が切れて了う。仕事の性質によっては之でも差支え
はない。がひと度美学や美術史のような仕事になると、この二つのものの絶
縁は又とない悲劇になる。こんなことは当然のことだが、案外この悲劇が省
みられてないのは不思議である。似た例はいくらでも挙げることが出来よう。
信仰を味わぬ者が、信仰に就いて詳しい理論を有したとて、結局は一物を欠
いて了うであろう。そんな信仰論に権威は出まい。例えば不道徳な倫理学者
があるとする。たとえその学者が卓越した頭脳の持ち主であったとしても、
彼の学説に最後の信頼が置けるであろうか。活きた真理に就いて何も掴むと
ころがないであろう。だがこんな種類の悲喜劇の中で、最もこまるのは美に
携わる者の場合である。私は有名な美学者にして、少しも美の見えぬ人の数
数を知っている。私は彼等の学問を信用しない。彼等は美学の学者であろう
とも、美学者ではない。哲学の学者と哲学者とは区別されてよい。歴史に詳
しい人を必ずしも歴史家と呼べないのと同じである。
二
併し反対に次のように云えるかも知れない。美しさを見たとて、美しさに
就いて知るところがなければ不完全ではないかと。知るところが乏しければ、
全く見ているとは云えないではないかと。ソクラテスは行うことと知ること
とを、つきつめてこのように一つに観じた哲学者であった。見ることと、知
ることとの完全な共同は、真に望ましい境地だと思える。併し現実はこのよ
うに見事には働かない。人間はどちらかの力に余計傾いて了う。見ることが
主か、知ることが主か、残念乍ら多くの場合、二つの流れに分かれて了う。
併し後者の悲劇は前者のそれよりも、もっと致命的である。美に関する限り、
見る力の乏しいことは、美への理解の根本的基礎を失って了う。只頭脳がよ
いからとて美学者になることは慎しむべきであろう。美に就いて詳しく知る
だけでは、美学者の資格にならぬ。
私の考えでは「見ること」と「知ること」とは内外の関係であって、左右
の関係ではない。寧ろ上下の位置にあるものであって、対等のものではない。
美への理解に於いては直観は理知より、一層本質的なものである。
三
観るよりも知ることを先に働かす者は美に触れることは出来ない。見る力
は内に入ってゆくが、知ることは周囲を廻ることに過ぎない。美への理解に
は分別より以前に働く直観の力がなければならない。本質的なものによく触
れ得るのは直観であって理知ではない。かかる意味で見る力は、知る力より
も、もっと本当の理解を有っているとも云える。説くことが出来なくとも、
真理に通うものが更に多い。
美は一種の神秘であるとも云える。だから之を充分に知で説き尽くすこと
は出来ないであろう。知り得る範囲のものは、深さに乏しい。かくいうと美
学を否定するようにもとられるが、丁度アクィヌスが云ったように、「神に
就いて何も知ることは出来ないという言葉ほど、神に就いて知っている言葉
はない」とも云える。アクィヌスは中世時代随一の知者であった。だから彼
は彼の知が神の前に如何に愚かであるかを熟知していたのである。自己の知
の貧しさをよく省みることの出来た彼ほどの知者は当時他になかったのであ
る。彼は神学者として名が聞こえるが、それより信者としての彼は尚偉かっ
たと思える。この事実がなかったら、彼は平凡な知者に過ぎなかったであろ
う。
四
見ずして知る者は神秘を知らない。仮りに美の内容が知によって精算され
たとして、示されるものが果たして美であろうか。きれいに割り切れる美は、
深い美であろうか。高の知れた美だと云えないであろうか。美学者は彼の美
学を知識の上に置くだけではいけない。否、それ所ではない。知ることから
見ることを導き出そうとしてはいけない。それは本末の転倒だからである。
試みに一つの花を手にとろう。私達は活きたその花を分析して、花弁や雄
蕊や雌蕊や、花粉や、その他に分けて標本に作ることは出来る。だが一旦分
けたそれ等のものを、繋いだとて、もとの活きた花にはならぬ。動体を静体
に移すことは出来る。併し静体はもはや動体に戻ることが出来ぬ。死んだも
のは活きたものに甦って来ない。それと同じことである。見る働きを知る働
きへ移すことは出来る。併し知ることから見ることを導き出すわけにはゆか
ぬ。直観は知識に移せても、知識から直観を生むわけにゆかぬ。だから美学
の基礎は概念であってはならぬ。美学者に見る力がなくば、美学に携わる根
本の力を欠いて了う。少なくとも権威ある美学者になることが出来ぬ。併し
この世には如何に直観に乏しい美学者が多いであろう。
五
幾らもある例である。一枚の絵の解説を、かかる美学者や美術史家が書く
としよう。若し彼が直観の人でなかったとすると、直ちに彼の解説に一つの
顕著な傾向が現れてくる。第一彼の前にある一幅の絵を必ず或る画系に入れ
て解説する。或る流派の作に納めないと、彼は不安なのである。絵はきれい
に説明のつくものでなければならない。だから筆者・年代等の探求は何をお
いても彼の重要な任務となる。彼は彼の知で凡てを説明し尽す時に満足を覚
える。彼は彼の解説に不明な神秘を残すことを極度に恥じる。人は之を学者
的良心と呼ぶ。併し省みると、それ以外に仕事がないからではないであろう
か。又それ以上に仕事がないからではないであろうか。それっきりで果たし
てよいものであろうか。又それで美の理解として足りるものであろうか。
彼の文章はここでいつも或る特色を帯びる。例外なく私達が逢着する事柄
は、彼がその絵の美しさを現すために、如何に形容詞に苦心するかにある。
言葉はしばしば大げさであり、又字句は異常であり珍奇でさえある。而もそ
の言葉数が極めて多量である。彼は形容詞の堆積なくして美を暗示すること
が出来ない。之は彼の解説のまごうことなき特色である。
だがなぜこういう性質がいつも現れてくるのか。結局美への認識を概念で
組み立てようとするからである。知ることで見ることに換えようとするので
ある。知ることで説こうとするから概念に訴えるより仕方がない。苦心する
形容詞は概念の要求である。それは感じられた説明ではなくして、知られた
解釈に過ぎない。感じが乏しい故に、強いて形容を重ねて感じを装うのであ
る。感じが波々と溢れれば、形容詞で造り上げずともよい。それは言葉を越
えた言葉を求めるであろう。形容出来るような美は、寧ろ深く感じられた美
とは云えないであろう。
六
見る力が知る力に伴わない時、即ち見る力が鈍い時、美術史家や評論家や、
又は蒐集家は、当然一つの混乱に陥る。彼等に共通した現象は次の通りであ
る。美しいものを讃える彼等に誤りはないとしても、醜いものをまできっと
讃えているのは惨めである。そのことはやがて美しいものを正当に讃えてい
るのではないということを告げる。彼等には美醜の見分け方が曖昧である。
美の標的が握られていないからである。だから歴史に上すべからざるものま
で詳しく研究する。彼等は平気で美しいものと醜いものとを並在させる。謂
わば価値判断がないのである。それが正確を得ている場合でも、まぐれ当り
だというに過ぎない。併しもともと美は「価値」世界であるから、価値標準
に混乱があったり、無標準であったり、又非価値的なものが標準に入って来
たりすると、美への判断はその根拠を失って了う。如何に巧みに美を説明し
たとて、的のはずれた美論に終わって了う。
一番著しい例をとると、蒐集家の場合である。この世には蒐集家は随分多
いが、筋の通った蒐集はめったにないものである。それは価値標準が曖昧だ
からである。それに美的価値以外のものが大きな標準になって了うのである。
例えば高価なものはよいというような考えである。併し高価なもの必ずしも
美しいとは云えぬ。商人の奸智に基づく場合が如何に多いことか。高価には
珍らしいとか無傷だとか在銘だとか、色々の根拠はあろう。併しそれ等のこ
とと美との間には、別に本質的関係はない。
是等の外的なことに価値の根拠を求めるのは美しさを直接見届けていない
証拠とも云える。美しさが見えれば、他の条件は殆ど入らない。真に美しい
品であるとするなら、たとえ無名であろうと、珍らしくないものであろうと、
多少の傷があろうと、美しさは動かない。選択はどこまでも美しさが中心で
なけらばならない。だからものの美しさに直接触れる力がなくば、ものを選
び集める資格はない。この力を欠く者が多い故に、その蒐集に権威が出ない
のである。玉石が混合するのは当然の結果である。だから集めるものに筋が
通らなくなって了う。集めるべきでないものを集める蒐集家がどんなに多い
ことか。又集めるべきものを集めない蒐集家がどんなに多いことか。
知識の道を歩く者には、兎角この危険が多い。
七
見ることと、知ることとの問題を又次のようにも説くことが出来よう。見
るということは具体界に関わり、知るということは抽象界に繋がる。易しい
言葉で言い現せば一方は「もの」に他方は「こと」に係わる。例えば此所に
宗達の絵があったとしよう。絵は「もの」であって、絵の美しさは「もの」
を離れてはない。だから美しさを見るのは「ものそのもの」に触れねばなら
ない。然るに彼は何派の人であったか、何年頃の人であるか、その落款はい
つ時代のものか、彼はどんな彩料を用いたか、彼の生活はどうであったか、
それ等のことは、直接「もの」に属するのではなく、間接に「もの」に関す
る事柄なのである。謂わば「こと」なのである。「こと」は知る対象であっ
て、抽象的な分野である。それ故「もの」は内に、「こと」は外に属すると
云ってもよい。「こと」を詳しく知ることは、「もの」を理解するよい補助
であろう。だが「もの」への直観がなくして、「こと」への知識だけでは、
美しさの核心に触れることが出来ない。「こと」から進んで「もの」に到ろ
うとするのは無理である。外部を廻って観察することは出来るが、「もの」
の内面に入ることが出来ない。それ故「こと」に如何に詳しくとも、美への
本質的な理解にはならぬ。美への認識は直観と知識とを兼備すれば理想的で
ある。併しそのうち最も本質的な基礎となるのは「もの」への直接な内観、
即ち直観である。「見ること」が第一に緊要なのはこの理由に依る。美への
問題は「見ること」から「知ること」へと進むべきである。「知ること」か
ら入る人は、啻に道が遠いのみならず、循環路に彷徨うであろう。「こと」
に興味の多い人は、美そのものには中々触れることが出来ない。
八
見る力と、知る力とは半ば命数による。特に前者は生まれてくるものであっ
て、人為的に作ることが出来ない。後者にも天賦の才は働くが、半ば勉学で
その力を増大することが出来る。孜々(しし)として学べば、何人も或る点
まで知識の主たることが出来よう。然るに「見る力」は多くその人の素質に
関わる。丁度「聞く力」や「描く力」が誰にも同じく許されていないのと変
わりはない。
併しそう云って了えば、全く宿命論的な結論に沈んで了う。見る力を準備
する道は何かないか。見るということも畢竟心の状態を示すのであるから、
その心理的過程に就いては、二、三のことを述べ得るであろう。私の贈り得
る第一の忠告は、ものを見た時、先づ審いてはいけないということである。
謂わば批判を最初遠慮することである。この習慣をつけることは何より必要
だと思える。ものを始めから知の対象として扱ってはいけないという意味で
ある。さもないと見る準備が出来ない。之を他の言葉で言い現すなら、先づ
受け容れよということである。自分を主張せず、ものに自分の耳を傾けるこ
とである。受身の立場に立つということが肝腎である。丁度鏡が、ものの姿
を受け容れるのと同じである。磨かれた鏡が更にその機能を発するように、
自分の心を無心になし得るなら更によい。受け容れる準備が整うからである。
無心というと、何ものもない消極的な態度のように取られるかも知れぬが、
ものそのものにぢかに触れる積極的な力はここから湧くのである。
或いは又こう説いてもよいであろう。最初から知を働かすのは、知で見方
を拘束する所以である。だから先づこの拘束から解放される自由がなければ
ならない。この自由を有たない場合、見方はものの核心に触れることが出来
ない。禅家の方で「一物不将来」という言葉を公案にするが、直観は正に一
物をも将ち来さない状態だとも云える。裏から云えば、もの自身をして自由
に語らしめることである。吾々が語る前にもの自らが吾々に囁くようにせね
ばならない。観賞に於いて認識に於いて、吾々は最初から饒舌であってはい
けない。後で振り返って批判を加えるのはよい。併し批判が最初から無遠慮
に出てはいけない。
だから見方を進ませようとするなら、見方を拘束する凡てのものを先づ棄
て去る修行をせねばならない。趣旨とする所は宗教の修行等と別に変わる所
はない。之が出来たら美はその姿を匿さないであろう。
(打ち込み人 K.TANT)
【所載:『工芸』102号 昭和15年3月】
(出典:新装・柳宗悦選集 第8巻『物と美』春秋社 初版1972年)
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